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Column & Brog

賭ける、という行為

ランボーやヴェルレーヌに影響を与え、フランス近代詩の父と称されながら生前唯一出版された詩集「悪の華」が摘発されるなど、背教的な散文詩を綴ったボードレールは「人生には真の魅力は1つしかない。それは賭博の魅力である」と述懐している。

 また「罪と罰」などの名作で知られるロシアの文豪ドストエフスキーも「賭博者」において「どうか偶然なんて事をあてにしないで下さい。偶然のない人生というのもあるのですから」とギャンブラーの心の奥底にある衝動を著しているほか、同じロシアの文学者プーシキンも「スペードの女王」という賭博をモチーフにした小説を綴っている。もちろん、この両者は当時の文壇において賭博愛好者としても名を馳せている。

 他にも、「誰が為に鐘は鳴る」などで知られるアメリカ・ハードボイルド文学の祖とされるアーネスト・ヘミングウェイもまた「ギャンブルと尼僧とラジオ」という作品を著しているとおり競馬好きとしても知られている。

 ここ日本においても寺山修司が競馬に材を採った数々の著作を遺しているほか、「父帰る」「真珠夫人」などで知られる文壇の重鎮だった菊池寛も78頭ものサラブレッドを所有し、日本馬主協会の初代会長を務めている。

 後世に名を遺しているこれら文人たちはなぜこうまでも「賭ける」という行為に魅入られてしまったのだろうか……。

 おそらく、かの先達たちはほんの僅かばかり先の未来に存在する自分の幸運を量り、あるいはまた、実際の人生では度々重ねられない「敗北」という甘美で爛れた快楽に身を委ねたかったのではないだろうか。

 受験、就職、恋愛など、人は実際の人生において、敗北を繰り返すわけにはいかないが、ギャンブルという、ある一瞬の閉ざされた時空間においてだけは、人は自らの意識に基づき「あえて負ける」という行為を採ることができるだけでなく、気まぐれな幸運の女神さえ微笑めば、勝利を得る機会すら与えられるのである。

 ジョルジュ・バタイユは「無神学大全」に「幸運は美以上のものだ。だが美は己の光輝を幸運から得ている」と著しているが、偉大なる文人たちは知らぬ間に、この幸運を量る術を「賭ける」という行為に見出していたのではないだろうか。

 もちろん、ここでいうギャンブルとは思考や知力をもって興じるものであり、パチンコや宝くじなどとは異質である。実際、株式投資なども含め、金銭を得るためだけに行われる行為に品性を感じる人はいないだろう。ただ、ギャンブルの経験が全くない人に賭博の魅力は語れはしない。

 モーリス・ルブランは「怪盗アルセーヌ・ルパン」の中に「女をよくいう人は女を充分知らない者であり、女をいつも悪くいう人は女を全く知らない者である」と著しているが、「女」を「賭博」に置き換えても全く同意になるのではないだろうか。

 ただし、男が翻弄されるという意味においては、アンドレ・ジイドが「日記」に「愛される男は、女にとって、じつは愛を引っ掛ける釘ぐらいの価値しか持っていない」と記しているように「女性」の方が遥か上位に存在するのかもしれない。

オフィスオラシオン

~心に響く言葉をつむぐ~

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